諏訪御由来之絵縁起
す わ ご ゆらいの え えんぎ

諏訪御由来之絵縁起とは (つつはの郷土研究会 橋口ミチ 林 昭男)

 本絵巻は、鹿児島県姶良郡吉松町(現・湧水町)川西、石川タモ(現・浩一)氏所蔵の
上下巻2軸で「南方神社縁起」とあるが、これは後日(明治時代)改装後のもので、むしろ奥書
にある「諏訪御由来之絵縁起」が適当であろう。
 奥書によれば、その書写年月日は(下記)天文12年10月8日(1543年=465年前)で、
書写政策の場所は大隅国筒羽野村新山寺である。
 新山寺は現存していないが、真言宗の修験寺であったといわれ、南方神社(諏訪神社)と
同所にあったということである。
 奥書に名を連ねている石川常陸守・七郎左衛門慰の流をくむ石川家は、神職に属し
古くは修験の職を業とされていたそうである。
 本縁起は、秀れた狩人で跡に諏訪大明神と崇められた甲賀三郎の物語絵巻で、主人公
を中心に(1)諏訪本社の信州地方(長野県)に分布するもの、(2)三郎兼家の故郷である
近江の甲賀地方(滋賀県甲賀郡)を中心に分布するものの2系統がある。
 写本も(1)(2)の2系統に分別されるが、今までは発表された写本の多くは(1)で、(2)は
きわめて少ない。
 そして、(2)の写本は数冊にすぎず、その中で写生年月日が最も古く、内容も最古態を示して
いるのが本絵巻である。従って、本絵巻は全国でも貴重な存在である。
 たまたま昭和47年8月9日、石川タモ氏の特別の御厚意で閲覧の許可を得たので、
「つつはの」4号より連載することにした。
 本縁起を紹介するにあたって、かって御指導くださった故寺師三千夫先生に喪心より感謝し
先生の御冥福を祈る次第である。
                                (昭和48年7月)つつはの4号

  





  

 
 元吉松小学校教諭 「林 ミチ氏」

 郷土誌「つつはの」の4号から 17号に翻訳掲載

 したものを、平成10年に本にして 発刊されました。
 
 購入希望の方は「諏訪御由来之絵縁起」

 で検索すると見つけられます。












故「寺師三千夫」氏が現代字体に通読された冊子原本


表紙


「本文」

南方神社縁起書
十六の大国の中に はるなひ(波羅奈)国といふくにあり
大王七人の ひめをもたせたもふ(以下省略)


「あとがき」

 右は昭和三十八年八月廿六日鹿児島県姶良郡吉松町石川家に現存し、保管
中の南方神社絵縁起二巻の披面を許され写真にし書写したものである。
資質、文字書体等より、天文年間のものと認められ、同学の士には貴重な
る一資料たるべしと思ひ、敢えて労を惜し〇〇まじとも考え、
 二巻は共に紙中、二八、糎、和紙に○○○流麗な仮名書で、中間に絵
解の挿画があり、表装は近代に改装されしもののようだが、全巻は十二米四
十糎、後巻は十三米四十糎である。
 吉松南方神社は現在氏子二百五十戸でこの縁起書は、石川家で先祖以来
保管し、門外不出は勿論の事だが、絶対に他に披見を許さざる秘宝でもあっ
たが、学問尊重の上から、披見を許され、又其を写真にすることも許された
事に感謝し、尚其について斡旋された吉松中学校教頭宮原先生に甚深の謝
意を表する。
 大隅国筒羽野村とあるは、現在の吉松の旧名であり、南方神社とあるは
神道よりの祭神が建御名方命(たけみなかたのみこと)なるために諏訪神社
を称せる事は既に周知に等しい。    
                          (寺師三千夫)
 


絵巻巻末






 平成20年11月27日の「寺小屋塾」にて
 縁起書の前で説明をされている
 南方神社宮司「石川浩一」氏