吉松と阿波いぜき
高 城 豊
吉松町と栗野町の町境に設置されている阿波いぜき
(堰)は、水俣窒素肥料株式会社が川内川の水を利用
して発電所を建設し、水俣窒素肥料会社に送電するた
め造られたもので、大正五年十月二十一日に鹿児島県
知事に願い出て、大正六年八月十四日、許可命令書が
出て許可され、大正八年二月完成したものであります。
その当時は川内川の管理権は鹿児島県知事が管理す
ることになっており、当時の知事であった高岡直吉が
許可しています。古老の話によりますと、地元吉松村
の意志は聞かれずに決定されているようであります。
川内川水利利用許可命令とは
栗野発電所水利用許可命令
指令甲土代七三九九号
大阪市西区土佐堀通三町目二十九番地
日本窒肥料素株式会社
大正五年十月二十一日、願、川内川水利使用
の件別紙命令書を下附し許可す
大正六年八月十四日
鹿児島県知事 高岡 直吉
日本窒素肥料株式会社
今般右の者に対し、川内川の水の使用及び水路拡張
並にその附属物の施設を許可するに付、本命令書を下
附す
(許可条件は二十六条から成っており、要点のみ記
載いたします。条文中(追記)とあるは筆者において
つけ加えたものであります。
第一条 水の使用の目的は窒素肥料製造のため発電
の用に供するものとする
第二条 使用水量は壱秒時参百八十立方尺以内とす、
m魚道の外常時弐拾立方尺の水量を本川に
放流すべし
使用水量に減少を来たしたる場合は、室谷
専一に使用許可の拾七立方尺の水量を通水
し、その残余あらざれば使用することを得
ず
第三条 取水口および放水口は左の如し
取水口 姶良郡栗野村北方字栗野山
放水口 姶良郡栗野村北方字 関
第四条 許可の年限は対象五十六年六月参拾日とす
(追記)昭和四十二年六月三十日迄五十年
間を期限としています
第五条 水の使用を許可したる水面積は四拾五坪に
して、一箇年、弐円弐拾五銭とし鹿児島県
知事の告知書に依り前納するものとする。
前項の使用料額は五箇年毎に更定すること
もあるべし
第六条 前文省略(着工の条件を命令された条文)
一、水路の流量は壱秒時間参百八拾立方尺
を標準とす
二、取水口には制水門を設け且量水設備を
なすべし
三、水路中適当な箇所に放水の設備を為し
定量外の水量の排水を為すべし
四、収入口若しくは放水口に接続する河川
の沿岸に対しては、本事業に起因して
生ずる災害を防止する為、相当の工事
を施すべし
五、水路開さくの為、水路経過地域に於い
て産地の崩かいをきたさざる様相当の
設備を為すべし
六、堰堤には魚道の設備を為すべし
(追記)当初の工事で魚道は設置され
ているが、毎重なる洪水のためか、破
損していたが、近年造り変えられた
七、堰堤には常時、二拾立方尺の水量を放
流するため相当の設備をなすべし
八、工事に依る土砂の捨場を定め相当の設
備を為すべし
九、室谷専一用水路口は、長五間以上、幅
参尺、高弐尺の暗渠とすべし、前項暗
渠の勾配は千弐百分の一より急なるべ
からず
第七条 北方用水路には現在にして通水し得るだけ
の水量を分水せしむるものとする
第八条 認可を得たる事項と言えども鹿児島県知事
に於いて、公益上その必要ありと認むると
きは之が変更を命ずることあるべし
第九条 省略(天災地変等で工事がおくれた時の条
件を明確にした条文)
第十条 省略(事業のため既設工作物の変更を要す
る時の許可条件)
第十一条 本事業のためかんがいその他水利及魚業に
支障を来し、又その虞あるときは許可を受
けたるものは関係者と協議し、水路の改築
その他適当の方法を講ずべし
前項により工事をなさんとするときは関係
者と協議の顛末を具し鹿児島県知事の許可
を受くべし
第十二条 鹿児島県知事において本事業のため風致を
毀損し又はその虞あると認むるときは許可
を受けたる者に命じ植樹その他適当の施設
をなさしむることあるべし
第十三条 鹿児島県知事に於いて本事業に依り治水上
損害を来し、又その虞あると認むるときは
許可を受けたる者に命じその障害を除去せ
しめ、又はこれを予防する為必要なる設備
をなさしむることあるべし
第十四条 省略(工事中の条件)
第十五条 省略(工事中の条件)
第十六条 工事竣工したるときは遅帯なく鹿児島県知
事に申し出して検査を受くべし
第十七条 省略(通水の届出)
第十八条 鹿児島県知事に於て公益上必要ありと認む
るときは期限を指定し引水を停止若しくは
引水量を制限することあるべし
第十九条 鹿児島県知事は水路及附属工作物竝本事業
に伴ひ施設したる護岸其他の工作物を監査
し必要ありと認むるときは許可を受けたる
元に命じ、相当の工事若しくは設備をなさ
しむることあるべし
第二十条 左の場合に於いては鹿児島県知事は許可の
全部若しくは一部を取消し又は工事の変更
中止を命ずることあるべし
一、公益上必要あると認むるとき
二、許可を受けたる者に於いて法律命令又
は本命令書若しくは、本命令書に基き
て為したる処分に違背したるとき
三、河川の状況の変更その他許可の後に起
りたる事実に因り必要ありと認むる時
第二十一条左の場合に於いては許可は効力を失う
一、本命令書の交付の翌日より起算し、六
箇月内に、明治四十四年逓信省令第二
十一号自家用電気工作物施設の認可申
請を為さざるとき、若しくは其の認可
を取消されたるとき
二、第六条の期間内に同条の認可を申請せ
ざるとき、又はその認可を得ざるとき
三、第九条第一項の期間内に工事に着手又
は竣工せざるとき
四、電気工作物施設の認可を得ざるとき、
又はその認可を取消されたるとき
五、中途に於いて工事を廃したるとき
六、全部の営業を廃したるとき
七、会社が解散したとき
八、営業満期のとき
九、許可年限満了のとき
第二十二条 許可の効力消滅したる場合に於いては、
鹿児島県知事は許可を受けたる者に命じ、
既設工作物の全部若しくは一部を除去し原
形に復せしめることあるべし。
担し鹿児島県知事は既設工作物の全部若
しくは原形のまゝ無償にて官有となすこと
あるべし
第二十四条 (省略)命令不履行の取扱いの条文
第二十五条 (省略)自らの損害に対する取扱い、
第二十六条 本許可に因り生ずる権利義務は鹿児島県
知事の許可を受くるに非ざればこれを他
人に移し、又は貸付することを得ず。
大正六年八月十四日
鹿児島県知事 高岡 直吉
当時吉松村はどう取り組んだか
水利使用許可命令が出されるに当り、吉松村には何
の説明もなく命令が下附されているため正確な記録は
残されていないが、川添地区に於いては重大な問題と
して取り組んだ模様であります。
森山元吉氏の記録によると、大正六年設置当時下川
添に於いては、堰を作ることによって大きな水害が発
生する恐れがあると判断して反対運動を起した、しか
し吉松村としては正式に反対運動をしていないため、
その運動も盛り上りに欠ける結果になったのではない
かと思われます。
許可命令書が下付されるに当って、県と水俣窒素肥
料会社は、集水の水の一部を栗野北方地区水田に送水
することが重要な課題であったようである、それは使
用許可命令書の第二条、第六条第九項、第七条、第十
一条の中に明確にされているのであります。
条文中、室谷専一という人名が出て来ますが、北方
地区の古老、前山 兼則さん(元栗野発電所勤務)の
話によりますと、室谷専一と言う人は広島県庁の土木
技師で退職して栗野町北方地区用水路問題に取り組ま
れた人で、栗野町誌の中に
第六節 用水路
一、北方用水路
イ、川内川右岸旧新田約六十町歩(二百年前開
通)
ロ、上新田(室谷新田)室谷専一の主唱により
明治四十三年起業、大正元年十月土工開始、
大正二年六月完成
となっている、この当時の北方用水路の取水口は現在
の堰の下流五十米位の位置にあり、クイを打ち、竹を
からませ、石を積んで取水していたが、毎年洪水のた
めに流され、北方地区農民の悩みであったと言われて
います、現在でも取水口の穴は残されています。
このように室谷専一(室谷新田)の関係から命令書
が下附されるに当っては北方地区新田三百八十町歩の
開田に、毎秒〇.四七二トンの水を流すことを条件に
(実際には一.三トンの水を送水し尚不足する場合は
送水量を増加すると言う北方地区との事前協議がなさ
れた模様である)吉松村の一部の反対の声は無視され、
話は一方的に進められ、大正八年二月、遂に阿波堰は
県の命令書に従って完成され、五十年間の契約(命令
書)に依って使用が開始されたのであります。
阿波堰設置後の吉松村の状況は
堰の設置後吉松村では洪水の度毎に河川は氾濫し水
稲は勿論、その他の農作物の被害、耕地の流失埋没、
家屋の浸水等、数多くの水害を被って来ました、特に
昭和二年八月十一日の大洪水の際は最大の災害となっ
たのであります
吉松町沿革史によりますと
イ、昭和二年八月十一日前より降雨続きにて、当日午
前二時頃より豪雨となり、未明には未曽有の増水
にて、役場事務所より四尺増水、室内は濁流とな
り、一般は泥海に化し、村内浸水戸数二百五十戸
を算し、その受けたる被害額は大略拾万円(昭和
二年当時の金額)を下らざるものと観察せらる、
停車場に通ずる吉松橋は流失し、殊に死者六名、
馬の溺死十一頭を算す、罹災民千余名のため、村
は直ちに婦人会への炊出しを要求したり。
ロ、古老の話によれば水害により、阿波せき堤の俳砂
門の鉄骨製の捲上機が破損したので、間知石積を
もって工事にかゝり、相当工事進捗しいる実情に
て、復旧工事が完成するにおいては、今後も必然
的に例年水害を繰り返すことになるので、昭和三
年一月十二日、(故)中村 重治村長はじめ村議
会が、県の土木技師を呼んで緊急協議し、堰を撤
去するよう話し合いがもたれたが、結果としては
会社側が栗野北方開田と協議し北方圃場用水路が
大きな要因となり撤去に至らず、条件として俳砂
門の改善を強く要望し、現在の水圧式可動扉に改
善されたと聞く。
以上のように伝えられているが、北方の前山さんの
話を聞くと、昭和二年八月の大洪水では堰は全部が倒
れたものであり、修復については一度造り完成したが
吉松村の厳重な抗議に依って取こわし、再度修復され
田茂のであると聞く
毎重なる水害に青年団が奮起
阿波堰設置後幾多の洪水による災害が発生、特に戦
後においては洪水のあった毎に赤痢患者が発生し、避
病舎は多くの患者が入る状況となった、この頃より井
戸が浸水する処に原因があるとして簡易水道の問題も
話題になって来た、それにさきだち、昭和二十六年頃
吉松村青年団(小島忠良団長)が発議し阿波堰の問題
で各部落座談会を開催して堰の撤去について運動を推
進した、この事は当時南日本新聞で大きく報道された、
青年団は当時の小島助役を伴なって、水俣窒素肥料株
式会社電気課長と接渉したが、吉松側は資料はなく実
状を把握しながらの交渉に対し、会社側は莫大な資料
をもって対処しこれを説明しながら、堰があるからと
言って逆水現象があるのでない事を強く主張し、会社
側の一方的交渉に終る結果となった。
この交渉の中で、他にも発電所施設を有しているの
で、これが例をつくることになるため、補償は出来な
いが、工場長権限で出し得る五十万円位と農家一戸当
り硫安一俵を差上げてもよい(但し今後は権利を認め
一切の異議を申し述べない事を条件)との案が出され
た、しかし交渉団は、今日までの永い間水害になやま
されて来た村民の事を考えると皆んなの了解を得るこ
とは出来ないとして会社案を拒否し交渉は物別れに終
った。
その後鶴永村政から中水村政へと変り、中水村長も
当時の石原 登代義士に再三上京陳情したが明確な回
答は得なかったものと思われる、更に議会においても
話題になったが契約満了まで待つと言う事で交渉は一
切行使されなかった。
昭和四十二年契約満了前の取り組み
契約期限満了直前、昭和四十年六月と八月に起った
洪水は当時の町民にはまだ記憶に新しいもので五十年
間の契約満了の日(昭和四十二年六月三十日)は町民
等しく待ちのぞんだ日であります。
過去の幾多の交渉の中で最も重要なものは、堰のた
めに逆水現象が発生するという実証となる資料であっ
たのであります、町は議会とも話を進めながら昭和四
十一年当初予算に(河川委託料)として十万円が計上
されたのでありますが、昭和四十一年十二月第六回臨
時議会が開会された時まで調査委託がなされておらず
末執行であった事から、川内川の逆水関係の専門コン
サルタントの調査依頼をし正確な資料を作製すべきで
ある、併せて最近の農作物の被害状況や、土木関係に
与えた損害を調査すべきである、議会に提案し議決さ
れたものは執行の義務がある、来年六月の期限満了に
間にあわない等、議会の中で激しい追求がなされた。
イ、議会において、阿波堰関係特別委員会設置
国に三権分立があるように、司法、立法、行政は、
おかし、おかさざるの原則があるが、本問題について
は執行当局、議会一丸となり取り組む事として議会の
中に特別委員会を設置し、専門的に調査交渉に当るべ
きである事を議決し、特別委員の人選は正副議長が決
めることゝした(当時の議長は川田 耕造氏)
特別委員会委員
委員長 竹ノ上末盛、 副委員長 別所 郁夫
委 員 馬迫 秀次、 宇都 質、 門松 義行
平松 俊幸、 吉村 良美、
以上七名を、昭和四十一年十二月十五日選任し、昭
和四十二年一月六日臨時議会において、特別委員の調
査旅費として二十万円が計上され、実質的な調査交渉
が開始された。
この特別委員会の委員は四十二年四月選挙において
変更された。
選挙後の特別委員
委員長 別所 郁夫 副委員長 吉村 良美
委 員 高城 豊 門松 義行 吉村 源一
福留 照美 有田 敏
ロ、阿波堰撤去期成同盟会設置さる
阿波堰は五十年間吉松町民に対して大きな被害を与
えて来ただけに町民全体のものとして受け止めるため
に農協、農業委員会、各種団体を含め(阿波堰撤去期
成同盟会)を作り町一丸となった運動に盛り上げて行
く体制を整え、役員を次の通り決定した
期成同盟会会長 竹之上 末盛
副会長 永野 勇
副会長 中野 実哉
◎期成同盟会総けっき集会と町内デモを実施
日時は前後するが、六月十日期成同盟会は総けっ起
集会を開催し町民の全力を結集して取り組むことを確
認し耕運機五十台を出してデモを実施した
大 会 決 議
大正六年阿波堰が設置されてから本年六月三十日ま
で、直接間接を問わず、尊い人命や畜産物を失い、
農産物については莫大な被害を受けて参りました。
又洪水の度毎に耕地は濁流にのまれ、家屋は浸水に
おかされ、幾多の不安と恐怖になやまされ続け常襲
水害地としての感を深め、その都度阿波の堰さえな
ければと言う住民の声を遂には、いつしか消え果て
半ばあきらめに似た町民感情となっておりました。
この間私達の祖先や先輩は、阿波堰設置反対の動き
や損害に対する補償請求等を行って来た処でありま
すが、その補償も堰改善もなされるでもなく、泣き
ね入りの状態の中におきまして、昭和四十二年六月
三十日契約更新の日を只ひたすら待ち続けてきたの
であります。
大資本である水俣窒素は莫大な利益を上げるため
に私達吉松町民は何故このような被害を受けなけれ
ばならないのでしょう、余りにも矛盾があると言わ
なければなりません、天災ならいざ知らず人為的水
害によって被害を受けるのはもうごめんです。
私達町民はこの契約更新の時期をもって阿波堰を
撤去し、失なわれた祖先の霊を慰め明るく豊な農業
を、そして町政を取り返すために今こそ全町民が一
丸となって、阿波堰撤去のために全精力を傾注する
ものである。
右決議する
昭和四十二年六月十日
阿波いぜき撤去期成同盟会
総決起デモ大会
このデモについては、耕運機五十台にそれぞれプラ
カードを立て(筆者デモ隊長指揮のもとに)町内一円
廻り、町民全員に対する認識の向上も併せ実施され、
テレビもこれを報道し大きな効果をもたらしたものと
思う。
ハ、町と議会特別委員会の取り組み
当初堰設置の契約命令書は、鹿児島県知事命による
ものであるため、先ず県に対して意向を聞くべきであ
るとして、知事(当時金丸三郎)土木部長、県議会、
(県議会に対しては、吉留県会議員を介してすべての
陳情すことを決め)に対して吉松町の考え方である撤
去の陳情を行った、県としては大正の時代は河川の権
限は県知事にあったが、現在ではその権限は建設省の
権限であり、責任を回避する訳ではないが斡旋の労を
とると言う事にならざるを得ないだろう、川内川工事
事務所に行くべきだとの指摘を受けた。
川内川工事々務所に陳情すると、事務所としては六
月三十日で契約が切れるということは承知していない、
水俣窒素の電気課長が来たことはあるとの回答であっ
た(後で話が進展するに従って話を綜合すると、建設
省と川内川工事々務所、水俣窒素との話し合いはあり、
ある程度の取引がなされていた模様)。
従って特別委員会は件河川課に実情調査を依頼、特
別委員会を開催する中で今後の方策を検討、中央接渉
もなすべきであるとの結論により、上京団二名をもっ
て建設省及び二区選出の国会議員、中馬代議士にも依
頼、一方県では水俣窒素と吉松町の実情をつかみ、資
料として、今日までの災害がすべて阿波堰によるもの
かどうか、大変困難な事を指摘された(町に確証はな
かった)
四月の町長、議会議員改選(中水千利町長から、東
盛武町長へ)後、阿波堰関係特別委員会を再編成し、
地域住民への周知徹底をはかるよう、五月二十四日よ
り、中津川、下川添、上向、竹中、上川添、永山、四
部落、中野、四ツ枝、山下で座談会を開催し、町や議
会の具体的取り組みや実情等を報告すると同時に、住
民の意見聴取を実施し、更に六月二日、鶴丸原口、丁
車場、般若時地区の座談会を開催し趣旨の徹底をはか
った。
県議会においては吉松町の陳情について、土木委員
会で審議が行なわれたが、困難な問題だけに結論に至
らず、土木委員長、吉留県議が来町し、具体的実情調
査を行った。
阿波堰撤去は町民の悲願として盛り上りを見せ署名
運動へと発展して行く中で、中馬代議士は金丸知事と
本問題の取り組を地方段階で結論に達するよう話し合
いがなされて行った、更に土木部長が変った関係から
新土木部長に対し、町、特別委員会、期成同盟会が陳
情したが、土木部長は、堰撤去についてはなかなか難
かしいが、川内川工事事務所と九州地方建設局には誠
意をもって当りたいと言う事で新しい進展は見られな
い状況であった。
六月二十八日県土木部長から電話が入りその内容は
「九州地方建設局は昭和四十二年七月一日より、水俣
窒素肥料に対して無条件に許可することにした」と言
うことであったので、土木部長はそれでは困るので三
ヶ月から六ヶ月程度仮契約にしてくれということで保
留になった旨連絡して来た(実質六ヶ月の契約延長に
なったと言う事である)
吉松町としてはこの仮契約の期間中に何としても話
を詰めなければならないことを認識しながら、県知事、
県議会、県土木部長、川内川工事事務所、九州地方建
設局、中馬代議士と建設省、水俣窒素肥料、等陳情活
動、話し合い活動を精力的に進めて来たが話の進展は
見られない状況であった、特に違った話としては、県
河川課長から、堰の高さを四〇センチ下げるとその影
響は上流四〇〇米までしかない、これで吉松町の逆水
現象は防止できるのではないか、と言う話が出されて
来たが、これも調査や話が進むにつれて、四〇センチ
下げる工事経費は二百八十万円かゝる、水俣窒素とし
ては、四〇センチ下げる計画は出来ているが実施する
意向はない。
一方建設省や川内川工事々務所は「利水治水は堰を
基礎として、実施設計がなされており、堰を撤去する
ことに依って、堤防の決壊等発生の虞がある」従って
川内川護岸工事の促進をはかることの方がよいのでは
ないかと、暗に堰撤去は困難なことを匂わしていると
受け止めなければならない。
十一月十六日、県土木部長の以来として、吉留県議
から、四〇〇万円の見舞金で金銭による決着の話が伝
えられた、特別委員会としては永い間の災害に対する
補償であり、見舞金と言う性格のもので受けるべきで
はない、あくまでも基本理念はつらぬかねばならない
として拒否、同時に東町長名によって水俣窒素との話
し合いを開催したい旨文書で申し入れを行った処、そ
の回答がなされた。
昭和四十二年十二月七日
ミイエ第七〇七号
吉松町長 東 盛武 殿
チッソ株式会社 水俣工場長
柏野三郎
として回答して来た、その内容は阿波堰堤について
は、鹿児島県の斡旋にまかせているので、吉松町と直
接話し合うのではなく県を通して話し合いたい(窒素
は吉松町と直接話し合は拒否すると言うものである)
十二月十九日、臨時議会を招集し特別委員長、町長
の経過が報告され、本会議の中で質問、意見等活発な
論議がなされたが、結論として言えることは(関係機
関の考え方は、撤去はしない、補償交渉で決着、護岸
工事の促進、の方向で固まっており、九十九パーセン
ト撤去は無理の状勢にある、従って五十年間の町民の
苦しみや、損失にどう答えるか、補償で解決するなら
ば、過去と将来が出てくる、これを計るモノサシはな
いから大変むずかしい問題である、十一月十六日県土
木部長から出された四〇〇万円の見舞金の基礎はどこ
から出されて来たのか、昭和二十六年に五十万円の見
舞金を出してもよいと言ったが、その金額から物価指
数で割り出したものか、四十センチ堰を下げる工事経
費に雑費百二十万円か、又は協力感謝料か、いづれに
してもこれで妥協する訳にはいかない、撤去が困難と
なれば戦術転換をしなければならない、それにしても
最早地方における交渉では全身はないと思われるので
中央交渉で解決しよう)と言う結論が出された。
中央交渉については、中馬代議士に一任し町と議会
は地元においてそれぞれの期間と接渉に当った、しか
し話し合は平行線のまゝ何の進展も見られず、川内川
取水の契約は再延長、再々延長とされる中で、県河川
課、川内川工事々務所、九州地方建設局は和解に向け
て早急に決着をはかってもらいたい旨、要請して来た
が、特別委員会としてはその都度、委員秋を開催しな
がら「急ぐことはない、急いでは足元を見透される、
水俣窒素が積極的になるべきである」として、長所の
撤去か又は撤去に近い改修を依然として崩さず、中央
交渉の成行きに耳を傾けて来た。
昭和四十四年五月、中馬代議士、建設省、窒素本社
の間で解決のための「覚書」が提示されて来た、特別
委員会は直ちに覚書きの内容検討を行ったが、その内
容は全く会社側の一方的なものであり町側の意向が入
れられたものではない、委員会としてはこれを修正す
べく申し入れた処、建設省と県で仲介の労を取り、中
間案が提示されることになったため、吉松町から四名
を川内工事々務所に派遣し検討した結果、ほぼ了解点
に達したので、交渉中たびたび話題となった町内の護
岸工事促進が前提条件であることを再確認し、覚書は
川内川工事々務所と水俣窒素との交渉に移された
最終的「覚書」と「調印」は
昭和四十五年一月、臨時議会において覚書について
審議すると共に、住民代表である期成同盟会にも理解
を求め愈々調印の段階に入り、議案として町長から提
された
提案理由
阿波井堰の許可期限満了に伴う町との紛争について
は、中馬代議士、建設省、県等を仲介として、これ
が解決のため議会ともども、チッソ株式会社と交渉
を進めておったところ、双方これが合意に達したの
で、解決確認の証としてチッソ株式会社と覚書の締
結のため本議案を提案する次第であります
栗野発電所取水堰堤紛争解決の覚書締結につい
て
栗野発電所取水堰堤紛争解決のため下記により覚
書を締結するものとする、よって、議会の議決に付
すべき事件に関する条例第一条の規定により、議会
の議決を求める
記
1.覚書の目的 栗野発電所堰堤紛争の円満解決
2.解決の金額 八〇〇〇千円也
3.覚書の内容 別紙のとおり
4.覚書の相手方 住所 大阪市北区宗是町一番地
氏名 チッソ株式会社
取締役 社長
江頭 豊
覚書
鹿児島県姶良郡吉松町(以下「甲」という)とチッ
ソ株式会社(以下「乙」という)は、乙の栗野発電所
取水堰堤(以下「堰堤」という)に関し、甲乙間に生
じた紛争について交渉を行ってきたが、乙の堰堤改造
工事実施に代り、下記条件で円満解決することを、甲
乙合意したので、ここに覚書を締結する
第一条 乙はこの堰堤に関する、甲乙間の紛争の
解決ならびに、乙の栗野発電所運営に関
する甲の協力にかんがみ、八〇〇〇千円
也を支払うものとする。
2前項の金額の支払時期は別途協議し決定
する
第二条 甲及乙は本覚書の締結により、乙の堰堤
に関する甲乙間の紛争は、全て円満に解
決したことを諒承し、甲は今後乙に対し、
これに関する一切の要求を行わない。
但し、今後門扉の誤操作等その他会社
の責任によって生じた、損害については
この限りではない。
上記確認の証として本書四通を作成し、甲乙及び
立会人は各その一通を保有する。
昭和四十五年二月二十五日
甲 鹿児島県姶良郡吉松町
東 盛武 印
乙 大阪市北区宗是町一番地
チッソ株式会社
取締役社長 江頭 豊 印
立合人 県知事 金丸三郎 印
立合人 代議士 中馬辰猪 印
以上の覚書調印によって、五十年間の大きな災害に
対する代償とはなり得なかったが、撤去が困難であっ
た裏には、栗野町北方地区の水田三百八十ヘクタール
の用水も一ツの大きな原因でもあり得るが四年間に亘
る交渉は一応の決着を見た処であります
八〇〇万円と、町民集会所(別館)
水俣窒素株式会社からの協力金八〇〇万円は、大正
八年二月完成して以来、幾多の浸水災害になやまされ
大変な苦労をして来た古老の方々のために、その労を
労うためにも有効な利用が望ましいと言う事で、あら
ゆる角度から検討された結果「老人いこいの家」を建
設し温泉を掘削して、温泉を利用しながら静養してい
たゞいたなら、老人の方々にも効果的ではないかと言
う結論となり、昭和四十五年度当初予算に「老人いこ
いの家」建設の予算が提案された、しかし地方債をも
って来なければ、八〇〇万円と一般財源ではとても出
来ないため、地方債で四十五年度から過疎債がつく事
であったが「老人いこいの家」では、過疎債がつかな
い関係から議会としては、過疎債で町民集会所として
再度提案してもらう事として、(設計委託料)のみを
残して修正可決されて、従って「老人いこいの家」を
「町民集会所」と名称を変更して、昭和四十五年度一
般会計補正予算「第五号」で提案されて来た
町民集会所の規模は
町民集会所は「社会福祉費」の「社会福祉施設設備
費」として提案されたもので、その設備の概要は、
本館 三八五・七三五 平方米
浴場 五九・ 六五 平方米
温泉堀削 深度 二〇〇米
以上が主体であり、その他の経費を含めて
合計 約、三四〇〇万円で完成したものであり
八〇〇万円はわづかな金であるが、町民の血と汗が滲
んだものである事を忘れてはならない、
むすび
阿波井堰については、まだ多くの問題点があり、具
体的にしなければならない点もありましたが資料不足
の上に古老を訪ねても故人となり、今日までの過程の
中で水俣窒素に対して個人で交渉した人もあったよう
ですが、この内容は明らかでありません、栗野町、米
満会員のご協力もいたゞき栗野町誌もみせていたゞき
北方用水路が持っている大きな機能は阿波井堰と切り
はなして考えることは出来ません。
町民集会所(今の中央公民館別館)も、建設の意義
を今一度思い起して有意義に使い又運営されなければ
ならないことを附記いたします。
記念碑の銘文
(正面)
明治四十三年八月鹿児島縣指令ニ基キ北方疏水工事ト
称シ石川県江沼郡月津村室谷専一氏大正元年十月起工
三 念十一月竣工ス此水路栗野山ヨリ柿木原ニ至ル
灌漑開田卅町余ニ及ビ稗益スルコト甚大ナリトス然ル
ニ室谷氏水路ノ権利一切ヲ譲渡スルノ意志ヲ発表セラ
ルゝヤ金二万五千五百五十円ヲ以テ裏記三十七名ニ譲
渡ヲ受ケ開田組合ヲ組織シ今日ニ至レリ時恰モ紀元二
千六百年式典ニ際會シタルニ依リ本事業ノ大畧ヲ砥
ニ記シ後昆ニ残ス云之
(背面)
池 田 彦 熊 中 島 金太郎 厚 地 純 隆
池 田 万 治 黒 木 齊 蔵 藤 井 清 市
池 上 四郎治 宿 口 仁右衛門 末 廣 畩太郎
池 田 重 治 山 下 シ ホ
岩 城 岩 熊 松 下 松 助 水守人
浜 川 傳 畩 藤 井 重 利 立
山 嘉 一
西 愛 熊 藤 井 源 助
堀 内 傳兵衛 安藤次郎右衛門
時 任 虎 二 佐 藤 武 二
折 田 壮 市 木佐貫 稔
折 田 傳 内 木佐貫 平
折 田 善 吉 姫 木 清 次
加治屋 郷 八 深 見 次右衛門
田 代 藤 内 立 野 畩 市
竹 下 畩次郎 立 野 仁太郎
辻 末 吉 辻 畩 熊
辻 袈裟吉 黒 松 金 内