中央の二尊種子板碑(レプリカが県の黎明館にある)
(注1)比丘尼妙性(びくにみょうせい)は沙弥道性(しゃみどうせい)の生母説もある。
妙性の入滅後13年忌を供養するとともに、自己の安穏を祈るために建てたといわれる。
(注2)記載の人物がいずれも仏名で俗名が不明。高僧の存在を考えることは甚だ疑問。
中世栗野院に勢威をはった豪族の建立と見た方が妥当ではないか(故 市来政香説)
周囲の5輪塔群
<薬研(やげん)彫りとは>
金石類に文字などを彫るのに、薬研の形状、すなわち断面がV字形になるように彫ること
約700年前の石碑群風雨で削れて見えなくなる
この彫り方は長持ちするので、得の高い人が採用したようだ。
<逆修供養塔とは>
自分より先に亡くなった年長者に対して冥福を祈る法要を追善(供養)というのに対し、
生きている間に自分の死後に対して、または自分より若くして亡くなった者(子や孫など)に
対して冥福を祈る法要を逆修(ぎゃくしゅ、逆修善・逆修法会)と称される。
なお、生きている間に建墓し、その墓石に自らの名前または戒名を朱書きすることを
「逆修の朱(ぎゃくしゅのしゅ)」という。ちなみに、「逆修」には迷いにより仏教における真理から
離れることという意味もある。
生きている間は幸福で、死後は極楽に行けるよう生前に建てた供養塔。
戦乱に明け暮れ、明日の運命すら分からなかった時代、宗教的な信仰こそが
唯一の支えであった。
<梵字とは>参照画像hp
梵字とは梵語を書くのに用いる文字のこと、
吉祥文字と言われる。
梵語は古代インド(天竺)の言語のことを言
います。
梵字は、インドの文字の総称で、地域や時
代によって異なる幾つもの書体を含んでいる。
インドの言葉サンスクリット語を表記するために
造られた文字仏教の文字観と結びついて、
宗教的レベルまで発達した。
日本へ伝った梵字は「悉曇[しったん]」と呼ばれ、
六世紀から九世紀にかけて中央インドを中心に用いられた流行書体である。
この悉曇が密教の教理と密接なかかわりを持つ。書体名のほかに、
悉曇文字には、「成就・完成」という言葉の意味がある。密教では、悉曇は大日如来から
相承した神聖な文字であると説かれる。成就・完成とは、悉曇文字そのものが持っている
機能が完成し成就しているということである。
弘法大師空海は、悉曇を如来の実語として捉え、文字でほとけのさとりの世界をあらわすこ
とができると説く。すなわち、種子[しゅじ]、真言[しんごん]、陀羅尼[だらに]を密教を形成
する重要な要素の一つであると位置付ける。このことは、真言宗という宗名にもあらわれている。
<卒塔婆(そとば)とは>
「塔婆即大日如来」この仏教信仰が塔婆研究の基本知識。
サンスクリットのストウパに漢字の音を当てたもの。本来の意味は高く現れるという意味。
供養・追善のため建てられた。上部を塔の形にして梵字・経文・戒名が刻まれている。
卒都婆(卒塔婆) → 塔婆 → 塔 いずれも同義語である。
板碑は石造りの卒塔婆のこと。平らな石の頂をを三角形に作ったものが多く、
上部に種子(しゅじ)や仏像を彫り、下部には偈(げ)・記年・氏名などが刻まれている。
平安中期・鎌倉・南北朝・室町時代に追善・逆修供養の為に建立された。
<梵字について>
石塔の世界に初めて触れてみて、意味不可解なことがどんどん出てきました。
梵語・梵字・サンスクリット・卒塔婆・板碑・悉曇文字・逆修供養・密教語(胎蔵・金剛界。曼荼羅など)
宗教的なことは奥までは知ることはできませんが、自分なりに整理してみました。
知り合いであった般若寺住職の故今村氏が機関誌「つつはの」に掲載されたものを紹介します。(許可済み)
<霧島の仏教文化について>栗野町郷土誌より
●仏教の流れ
奈良時代は写経 平安時代は祈祷 江戸時代は読経が中心であった。
●性空(しょうくう)上人
26歳で父を失い、母に従って京都から日向に来た。
10年後 天慶8年(945)比叡山の仏門をたたき、再び霧島山に居をかまえ
白鳥権現や般若寺を建立した。
●臨済宗の開祖栄西(1141〜1215)
博多聖福寺に初めて茶を移植した。その後「喫茶養生記」を片手に霧島山麓を行脚
布教の傍ら同地帯を茶の名産地に育て上げた。
●禅書「碧巌録」
古くから愛読されたこの本は室町時代の初期に飯野で出版された。
これは南九州における最初の出版事業であり、同書の日本における最古出版でもある。
著者は宋の「雪ちょう」「円悟」。発行者は飯野長善寺の「秀篤」。出資者は「北原久兼」
応永6年(1399) 「聚分韻畧(しゅうぶんいんりゃく)」1530 飯野で改定。
南北朝前後の霧島山麓は南九州における仏教文化のメッカ。
吉松・栗野・飯野周辺の活気は想像以上と考えられる。