西郷どん専科



  年表 

1828年(文政11年)  鹿児島城下加治屋町に 生まれる。

1849年(嘉永2年)  お由羅騒動。  21歳

1851年(嘉永4年)  斉彬が薩摩藩主となる。 23歳

1853年(嘉永6年)  ペリー率いる蒸気船、浦賀に来航。 25歳

1854年(安政1年)  上書が認められ、江戸勤めとなる 。 26歳

1858年(安政5年)  井伊大老の安政の大獄が始まり、阻止せんとした島津斉彬の死を京都で知らされた西郷隆盛は
      殉死しようと決意しますが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意。
      しかし、鹿児島に月照と帰還するが藩に認められず2人は入水(じゅすい)
      西郷は助かり月照は死ぬ。 30歳

1858年(安政5年)  幕府の目を避けるために奄美大島へ島送りされる。  30歳

1860年(万延1年)  桜田門外の変 井伊大老の暗殺。  32歳
 ~1862年  

      ●久光の上京   ●隆盛の先走りに久光激怒

1862年(文久2年) 徳之島さらに沖永良部島に遠島。 

1862年(文久2年) 寺田屋事件 久光の命で倒幕派の同郷藩士を討つ。
      生麦事件   久光の行列に4人のイギリス人が横切る。  34歳

1864年(元治1年)  安政の大獄以降 流罪生活を送っていましたが薩摩藩の窮地を救うため京に呼び戻されます。 36歳

1864年(元治1年) 蛤御門の変で軍賦役(軍事司令塔みたいな役割)として 長州を討ち破ります。 36歳

1866年(慶応3年) 薩摩藩家老小松帯刀邸で薩摩藩と長州藩が同盟(薩長同盟)を結びます。 38歳

1867年(慶応3年)  幕政改革を強く主張しながら討幕には消極的だった山内容堂を説得するため高知入りします。 39歳

1867年(慶応3年)  二条城・二の丸にて大政奉還が行われました。 39歳

1868年(明治1年) 鳥羽の地で鳥羽伏見の戦いが勃発します。 40歳

1868年(明治1年) 駿府城下 伝馬町の松崎屋源兵衛宅で山岡鉄舟と西郷隆盛の会見が行われます。 40歳

1868年(明治1年)   西郷隆盛と、勝海舟の会談が、田町の薩摩藩邸で行われます。
1868年(明治1年)   西郷隆盛と勝海舟の会見が池上本門寺の中にある松涛園にて行われます。
1868年(明治1年)   西郷隆盛  江戸城入城し無血開城が実現します。  40歳

1868年(明治1年) 旧幕府軍と上野の地にて戦い 勝利します。 40歳

1873年(明治6年) 明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定しますが木戸孝充らの反対にあい 計画は頓挫します。 45歳

1877年(明治10年) 熊本城攻めを行いますが攻めあぐねます。 49歳

1877年(明治10年) 田原坂の戦いで大敗   薩摩軍は追い込まれていきます。  49歳

1877年(明治10年) 城山にて官軍の集中砲火の前に西郷隆盛落命します。  49歳



西郷の犬たち

東京上野の西郷どんの犬


連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、
銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルに
して雄犬として作成された。西郷の体の大きさと比較すると犬は小さく見えるが
、実際の薩摩犬は像よりもっと小さく、高村は少し大きめにするよう要望したという。
            高村光雲作(犬は後藤貞行作)

西郷どんと10匹の犬

カヤ  寅  つん  クロ  ツマ  ブチ     


カヤ 西南戦争に従軍し、城山決戦の時は犬まで道ずれにできないと放した。
    2匹いたが、1匹は西郷縦道が東京へ連れて行った。

寅  戊辰戦役後、江戸から京都に来た時連れてきた。西郷は京都の料亭でも一緒に食事を
    とった。オランダ種だったので狩りには向かなかったので、耳の尖った薩摩犬や和犬を
    飼った。

つん  薩摩川内市にある高城温泉付近で狩りをしていたころ同行した犬。藤川天神に像が建立。


西郷どんとツンの由来 <ネット辞書参照>




明治7、8年頃、藤川天神に参詣の西郷どん(西郷さん、西郷隆盛)は、藤川牧野の前田善兵衛が
飼っていた名猟犬のツンを見て懇望した。
ツンは虎毛の左尾の牝犬で兎狩りの逸物であった。三原隼太なる人を経て贈られた西郷どんは喜び
自分の乗馬を三原に与え、前田には金20貫を与えた。
その後ツンは、はるばる藤川を慕って二度も帰ったと言い伝えられている。NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の
放映を機に110年を経た今『ツンの像』を建てる。                
 
                         平成2年2月吉日   西郷隆盛愛犬『ツン』銅像建設委員会 

『ツン』の銅像は、体高60cm、体長80cmでほぼ等身大。日本芸術院会員の中村晋也鹿児島大学教授(当時)が制作。



隆盛は父の名? ねっと辞書より

西郷隆盛の本当の名前は西郷隆永? さて、真相はいかに?

西郷は普段「吉之助(きちのすけ)」という名前を使っていた。ところが貴族だった岩倉具視にあてた
直筆の手紙には「隆永」とサインが残っている。
政府の高官や貴族宛の手紙には本当の名前を書かなければならなかった。
では、吉之助でも隆永でもない「隆盛」がどうしてついたんでしょうか。

明治2年(1869年)8月、明治政府樹立に貢献した西郷隆盛は明治天皇から名誉ある「正三位」の位を授かります。
明治政府は書類にその名を記すため西郷の本名を大至急知る必要がありました。
しかしその時西郷は函館戦争を終え船で鹿児島へ戻る途中で連絡がつかず、明治政府は西郷の友人吉井友実に
西郷の本名を聞きに行きました。しかし吉井は西郷を通称名の「吉之助」と呼んでいたため本名を思い出せず、
困った吉井は思い出した「隆盛」という名前を伝え、明治政府は「西郷隆盛」で書類を作成しました。
実はこの「隆盛」というのは西郷の父親の名前です。その後西郷はこの事実を知っても特に異論を唱えず、
父親である隆盛の名前を使ったんですね。

<理由その①>

壬申戸籍を公式に作成するまでは、日本では『平民は公式には苗字を持たず、姓と苗字を有する武士や公家も
気軽に名前を変えていた』状況であった。この状況は、明治時代の到来とともに大きく変わります。
※ ちなみに幼少は小吉(こきち) 隆永 通称は吉之助(きちのすけ)で通す。南洲はその雅号 


雅号は「南洲書」と読み取れます。赤の押印には「西郷隆永」とあるのでは?

ありました。

<理由その②>

「西郷吉之助」と名乗り、呼ばれていた。西郷が「隆永」という本名を名乗るのは手紙を書く時だけであり、
それも口頭では言わずに文書に署名するだけであった。筆の草書文字で書くわけですので、
西郷がどのくらい達筆だったのか知りませんが、現代人には何と書いてあるのか判読できない程度です。
すなわち、皆「西郷吉之助」は知っていても、吉之助さんの本名が「隆永」であることについて
回りはさほど名前には関心が無かった。

<理由その③>

そして、政府に一度届け出た名前を変更するのは原則としてできなかったようです。

西郷の場合は、「壬申戸籍」が作成される明治5年より前の明治2年に「正三位の叙位に伴い、明治政府に
『西郷隆盛』と届け出て『位記』が発行された」ことにより「西郷隆盛」という名前が確定したわけですが、
変更はしなかった(できなかった)ようです。
「叙 正三位」と書いた左に捺されているのは「天皇御璽」であり、「天皇が位階を授けた」ことになり、
「そもそも訂正を願い出るなど恐れ多いことであり、論外」ということではないでしょうか。

※  西郷隆盛の弟の西郷従道は、本当の名前は「隆道」だったと言います。
ところが、兄と同じように本名を明治政府に届け出るときに「ワシの名前はリュウドウだ」と役人に言ったのが
「ジュウドウ=従道」と聞き取られて「西郷従道」として書類が作成されてしまい、
そのままになったと伝えられています。
歴史上の有名人である西郷兄弟が、いずれも本来と違う名前が公式のものになってしまったというわけですが、
「政府に一度名前を届けると変更は不可」ということだったのだろうと思われます。


遠島