山神第2トンネルの悲劇

<事故の詳細>
 肥薩線吉松駅 - 真幸駅間の山神第二トンネル内において、蒸気機関車(D51形)牽引(もう1両のD51が後押し)の上り
人吉方面行き列車が勾配を登り切れず停車。先頭の本務機はトンネルから出たものの、排煙の充満するトンネルの中
で客車や後補機が立往生する事態となり、排煙を逃れようと線路に降りた乗客がトンネル内を歩いていたところ、同じよ
うに排煙から逃れようとブレーキを緩めて後退してきた列車に次々と轢かれ、53名が死亡した。(最終的56名)

 事故列車は大勢の復員兵を乗せるため、一般客車5両の後に「代用」として無蓋貨車を8両連結していた。貨車には当
然車内放送設備がないため車掌から注意を喚起できず、また後補機の乗員も排煙にむせ返って指示を出せない状態で
あった。そのため何が起きたか理解できなかった乗客は歩いて避難しようとしたが、狭い当該トンネルでは線路上を歩か
ざるを得ず、また当時はトンネル内に照明もなかったため、列車の後退に気づくのが遅れ、次々に轢かれてしまった。
(Wikipedia 参照)


<場所>


<擬似体験> 
吉松から人吉に向かう列車内の右座席より撮影
 人吉  吉松  トンネル通過動画 


吉松から人吉に向かう最後尾から撮影


地元有志による記念碑周辺の清掃 2017/8/20
場所はトンネルを過ぎてすぐ右です。



<2017/8/20 山神トンネル慰霊祭に参加>
南日本新聞に掲載されました。 参加者(大重 吉岡 三堂)


<自衛隊員と参加者による慰霊碑前の清掃作業>


<供養祭>


 


 
 

ポッポ会の代表で焼香する大重氏 (蝉たちも大合唱で供養)


悲劇を見た生き証人 鶴田守氏のお話し (ボリュームを上げて聴いてください)


<終戦秘話として戦後初めて報道された新聞記事>
鹿児島新報(昭和37年8月15日)1962年 現在廃刊
当時 報道部にいた黒木正彦氏(湧水町川西)が取材した。



昭和36年、17回忌に建立された慰霊碑です。
平成11年に上記記念碑に改装されました。



<鹿児島新報 50回記念誌 「鎮魂 復員列車の悲劇>より
殉難復員軍人名簿 報道部黒木氏作製




<戦後の輸送背景>