栗野の由来と旧跡

 
 栗野の由来は左図の三国名勝図会にある。
 
 本府の北方、12里半余、地頭館(やかた)小羽村にあり、
 往古の文書、建久8年(1197)大隅の国図伝帳に栗野院と記せり。

 日向風土記・・・和銅6年(713年)及び延長3年(925年)・・には
 俗語に謂う区児・栗とす云々。・・・・

 古事記・・・和銅5年(712)  日本書紀・・・養老4年(720)には
 霧島山を槵觸峰という、槵觸峯の麓なれば 槵觸野と呼びし
 槵と栗と同じなれば 字を入れ替えて
 栗觸野(くりふしの) 栗野といへるならん。

 

 勝栗神社(正若宮八幡)は
 
 大隅国図伝帳に
 “建久8年(1197)栗野院64丁正若領と載す”
 とあるので、現「勝栗神社」は800年以上の歴史がある。

 文禄元年(1592)2月7日、当正若宮八幡社(勝栗神社)で
 文禄の役出陣式が執り行われた。この時、諸侯の鋭気を
 上げるために備前の錆刀磨欲踊を興行し、即興に和歌を詠じた。
 「野も山もみな白旗となりにけり 今宵の宿はかち栗のさと
 この和歌が勝栗神社の由縁になっている。

 松尾城(別名栗野城)は

 天正18年(1590年)~文禄4年(1595年) 島津義弘が居城。
 文禄元年(1592)の文禄の役にはこの松尾城から出陣。
 枡形虎口の石垣がある「南九州唯一の山城跡」である。
 松尾城城山(しろやま)は薩摩焼きの発祥地。
 ※文禄の役で朝鮮の陶工が移住してしてきて窯を開いた。

 改築は江戸城を築いた太田道灌の子孫、大田武篇之助(ぶへのすけ)。