教育の沿革(吉松小学校)
参考図書
「吉松郷土誌改訂版」・郷土誌「つつはの」5号
平成22年3月完成 | ||
平成20年5月 | ||
昭和38年10月 後方の鉄筋校舎は昭和35年に完成 | ||
昭和30年 | 昭和27年 |
1703 | 元禄16年 | 赤穂浅野家より宍戸鉄舟が当地に来る | 宍戸鉄舟=井原西鶴に継ぐ、浮世草子の作家。 | |
1856 | 安政3年 | 鹿児島の漢学者西田嘉内を招く | 西田嘉内=2年足らずで死去、墓は鶴迫墓地にある。 | |
1865 | 慶応元年 | 加治木郷の士族赤塚正輔を招き 中津川仮屋に「学問所」を開設 |
当時の生徒はわずか20人内外であった。 麓の赤塚氏がその子孫である。 |
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1867 | 慶応3年 | 地頭の高崎兵部、仮屋邸内に「鳴鶴館」を創設、文武両道に力を発揮 | 高崎兵部=のち五六と改名し、東京府知事を経て 男爵となった。 |
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1872 | 明治5年 | 学制が頒布され、もとの仮屋を廃して校舎にし 「郷校」と呼ぶ |
学制頒布=明治5年8月3日 赤塚正輔が三等教授、古川重親が四等教授、中村重安・ 中村重国・愛甲隆平が助教授に命ぜられた。 |
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1876 | 明治9年 | 学制頒布正則施行で「吉松小学校」となる |
当時男性徒100人、女性徒40人ぐらい。 古川重親・川田國治が師範学校で教授法を受講する。 西南の役で学校は兵士の陣営となる。 |
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1878 | 明治11年 | 「川西小学校」・ 「川添小学校」が分立 | それぞれ生徒数は30人余り 学制から教育令に 初代学務委員古川重親。 |
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1883 | 明治16年 | 吉松小学校改築 三科指定となる | 三科=初等中等高等=3・3・2=8年 | |
1886 | 明治19年 | 「吉松尋常小学校」となる | 川西・ 川添の両校は簡易科。 古川重親氏が初代吉松小学校校長となる。 |
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1888 | 明治21年 | 高等科併置と校舎増築 | 校長の月俸 12円 | |
1889 | 明治22年 | 川添小学校と合併 | 教育勅語 | |
1892 | 明治25年 | 台風のため拡張新築 | 工事費1500円余 | |
川西小学校と合併 | ||||
1895 | 明治28年 | 吉松高等小学校設置許可 | 校長の月俸14円 | |
1897 | 明治30年 | 学校林の設置と植林開始 | 中津川松ヶ瀬原野 | |
1891 | 明治34年 | 吉松尋常高等小学校 | ||
1910 | 明治43年 | 現在の小学校に移転新築 | ||
1917 | 大正6年 | 校長の月俸 120円 | ||
1923 | 大正12年 | 本地篤良の抜擢(師範学校主席) | 約10年間、本校の名声が上がる 児童数1200人、教職員30人余 保護者会ができ吉松教育の基礎となる 「御空を翔る・・・」尋常小学校校歌ができる |
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1941 | 昭和16年 | 吉松国民学校 ・ 般若寺文教場 | 営林署関係者の子弟10人ほどを教育 藤井藤吉(川添)が自宅から通勤 |
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戦時中 | 第18代校長村口龍雄氏氏の日記より 教員と生徒は坑木運搬・炭焼き・護岸工事・沢原の開墾 運動会は吉松橋下の広場で青年学校と一体 機銃掃射を受けてからの授業は神社や民家で 校長室職員室をのぞいて校舎は満州独立鉄道部隊の駐屯地 講堂は衣料資材の大倉庫と化した |
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1945 | 昭和20年 | 戦争終結 | ||
1947 | 昭和22年 | 吉松小学校 | 6334制の導入 財政難で中学校と同居、24年に中学校は現在の地に移転 現弓道場あたりに高校もあった↓ 隼人工業吉松分校→栗野高校吉松分校→昭和34年廃校 |
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1960 | 昭和35年 | 吉松小学校鉄筋2階建校舎完成 | ||
2008 | 平成20年 | 平成20年、老朽のため新築されることになる | ||
2010 | 平成22年 | 現校舎完成 |