青面金剛(しょうめんこんごう)
宝暦6年(1756年)2月庚申信仰の全盛期に造立されました。
製作者は「海老原源佐衛門」です。現在の伊佐市菱刈町に住んでいました
1738年〜1775年の間に、青面金剛の他に
仁王・地蔵菩薩・コマ・龍燈・観世音などを石彫しています。
青面金剛とは (hpより抜粋)
奇病を流行らす鬼神で、猿の化身ともいわれ
その容姿については、『陀羅尼集経第九』 に、
「一身四手、左辺の上手は三股叉を把り、下手は棒を把る。右辺の上手は掌に一輪を託し、
下手は羂索を把る。其身は、青色にして大張口、狗牙は上出す。
眼の赤きこと血の如くして三眼あり・・・・・」
とあります。要約すると「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、
三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、
足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」姿で現されますが、
一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(ぴ)=手が6本(二・四・八臂の場合もある)で
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いです。
頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いている場合もある。
また、どくろを首や胸に掛けた像も見られ彩色される時は、
その名の通り青い肌に塗られます。この青は、釈迦の前世に関係しています。
青面金剛と釈迦前世談
その時の釈迦は雪山童子と呼ばれ、雪山(ヒマラヤ)で修行していたところ、
羅刹(らせつ=人を食うといわれる悪鬼・のちに仏教に入り、守護神とされた)
に身を替えた帝釈天が現われ「諸行無常 是生滅法(諸行は無常なり、
これ生滅の法なり)」と唱えました。
童子がその続きを問うと、羅刹は「腹が減ったから人の肉が食べたい」と答えました。
童子がさらに「続きを聞かせてくれるなら、自分の命は惜しまない」というと、
「生滅滅巳 寂滅為楽(生滅を滅し巳え、寂滅を楽と為す)」と教えました。
喜んだ童子は、後の世に残すため、木や石にこの四句を書きつけ、
樹上より身を投げて羅刹に与えようとしたところ、帝釈天がそれを受け止めたといわれます。
この話を帝釈天自身でなく、その眷族(けんぞく=親族)である四鬼とする説があり、
これを「四句文刹鬼」と呼びます。鬼たちはそれぞれ、四句の一句を表わすとされ、
その肌は諸行無常=青、是世滅法=赤、生滅滅巳=黒、寂滅為楽=肉色だという。
すなわち、諸行無常を表わす鬼が青面金剛ということになります。
これとは別に、帝釈天の眷族とされる四夜叉も、色こそ違うが四つの色で表わされるところから、
どこかで混合や同一視が起こったものと考えられます。
青面金剛と鶏
青面金剛には、よく雌雄一対の鶏が刻まれています。これは申の次ぎの日、
すなわち酉の日になるになるまで籠るからだといわれ、あるいは、夜を徹して、
朝に鶏の声を聞くまで念仏を唱えるからだという説もあります。
青面金剛と三猿
中国道教では、天帝を北斗と同一視することもあり、
北斗は天・地・水の三官とともに人の功過善悪を調べ、生死禍福を司るといわれます。
江戸時代になると、庚申信仰は、この北斗を本地(本地垂迹の元になるほう)とする
比叡山の山王信仰と結びつき、山王権現の使者・猿=申という連想から
庚申と結びついたとも考えられます。
やがて三猿を三尸の虫になぞらえ、「見ざる・言わざる・聞かざる」で、天帝に罪を報告させない、
という意味へこじつけていったようです。
この三猿の起源については、従来伝教大師・最澄や弘法大師・空海、
あるいは儒教や道教などの道徳的見地に由来するとされてきましたが、
近年アンコールワットの調査により、樹上で三猿らしきポーズをとる人間像が発見されたことから、
中近東起源説が有力になっています。
あるいは、古代エジプトの土偶にも、耳と目を両手で押さえた二体の像と、
片手で頭を、もう片手で胸を押さえた像が同時に出土していることから、
エジプト起源説をとる学者もいます。
庚申と日輪・月輪
いずれにせよ、庚申信仰は室町時代に盛んとなり、「月待ち」「日待ち」などの習俗とも混淆して、
次第に「庚申待ち」という念仏講的色彩の強いものとなっていきます。
青面金剛の頭上に日輪・月輪だ描かれるのはこれが基になっていると思われます。
庚申と道祖神
一方神道系は江戸時代になって、申=猿の関係から猿田彦大神をまつるようになります。
猿田彦は、天孫降臨の折に道案内を務めたことから、道祖神と同一視されていますが、
これも、庚申塔と同様村の辻や境界に置かれることが多いので、両者が次第に結びついていった側面もあると考えらます。