般若寺の歴史の「通説」は
般若寺はいつの年代かわからないが天台宗から真言宗に改まった。
1336年(建武3)博多の多々良浜に、菊池武敏を
破った足利尊氏が南下して来て、般若寺を本陣とし、挙兵を行った。
ある日、国人である草部義国(真幸院の郡司・日下部氏又はその一族か)
を呼び、別当(亀鶴城の鶴岡八幡社の宮司を兼務)に杯を与えて、次の歌を詠んだ。
「日に向う山のあるじを来てみれば
端山に照らすありあけの月」
別当は直ちに返歌して、
「吾妻より西の山の井清ければ
月日も澄める寺井なるらん」
尊氏大いに感称し、本尊の千手観音に天下統一を祈願する。
後にその利運があったとして、本堂を建立寄進した、という
由緒のところである。
(注釈)
国人=南北朝~戦国時代を通じての地方の荘官,地頭,名主など在地領主,在地土豪,地侍などをいう。
別当=本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・
監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、
本官のほか, 別にその職にあたることの意。
検非違使 (けびいし) 別当,蔵人 (くろうど) 所別当はその代表的なもので,
特に別当とだけいえば検非違使別当をさすことが多い。(ネット辞書)
尊氏が当地に来た事を記す古文書「吉松亀鶴城 并 宗廟遺書」では
参考文献 昭和53年「つつはの11号」山下繁三郎氏訳では
■尊氏公が日向山来て両社を崇敬し、筑紫に下る時、日向の残党は尊氏に従った
■8番所を造営した(※ 剛五の丸 立山ヶ峠 石折峠 般若寺山天邊 鳩越峠 赤花の城
山下 八幡宮東)大番所は亀鶴城とされ、合図は昼は貝、夜はかがり火とした。
■このお礼に別当に盃を与え歌を詠じた「日に向かう山の主を来て見れば 端山をてらす在明の月」
別当が返歌して「あづまより西の山の井清ければ 月日も澄める寺井なるらん」と詠んだ。
■尊氏公はこれに喜び、この城を<亀鶴城并宗廟>と呼ぶこととし、戸帳に歌を自筆で書き、両社に寄進した。
「あめつちの治まるためしひく鶴の かけてそみゆる亀の神かき」
「あめつちをなびけまかする神かきの 名を尊氏が世とぞまもれる」
「吉松亀鶴城 并 宗廟遺書」原文
「つつはの11号」
■このように、尊氏が筑紫に下れば、九州は悉く(ことごとく)彼に従うし、陣構えしょうとする
と、そこに亀鶴の城ががあるし、これは全く神仏のお蔭でであった。
■九州が尊氏に従ったのは不思議な霊社である亀鶴の両神が彼を守護した、として世に知れ渡った
■別当が鶴丸殿、亀澤殿、権太夫殿へ書状を送り、亀鶴の名城・霊神の威徳を天下に告げた
鶴城の鶴岡正八幡社は1616年に鶴丸八幡神社に
亀城の亀岡天神は1570年に菅原神社に移設
「足利尊氏が南下して来て、般若寺を本陣とし、挙兵を行った」という説に異論もあるようですが
上記「吉松亀鶴城 并 宗廟遺書」の
「九州が尊氏に従ったのは不思議な霊社である亀鶴の両神が彼を守護した、として世に知れ渡った」の文節、及び
尊氏が両社の戸長に書いた上記2つの和歌
「あめつちの治まるためしひく鶴の かけてそみゆる亀の神かき」
「あめつちをなびけまかする神かきの 名を尊氏が世とぞまもれる」
を拝読するにあたり
「もしかすると本当に尊氏が当地に来たのはでは?」と、1人で歴史のロマンに慕っている私です。(^^)/