(1)「庚申」とは (hpより抜粋)
「庚申」は、干支(えと)の組み合わせの一つ。
十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を甲子、乙丑、丙寅、・・・
と組み合わせると全部で60種類の組み合わせができる。
その一つが「庚申」で、「かのえさる」「コウシン」と読む。
これを暦に当てはめると、60日ごとに庚申日が訪れ、60年に一度庚申年が巡ってくる。
「還暦」の祝いは、この60の干支の組み合わせが一巡したことを意味している。
(2)「庚申信仰」について
「虫の居所が悪い」「腹の虫が治まらない」などと言うことがあるが、実は人間の体内には、
生まれながらにして三匹の虫(上尸・中尸・下尸)がいるらしい。尸=し
四天王寺庚申堂(大阪市)など各地に伝わる『庚申縁起』には、以下のように説かれている。
「庚申日」の夜、人々が眠っている間に体を抜け出た三匹の虫が天に昇り、その人の善悪を
天帝に告げる。
そして、報告を聞いた天帝は、罪の軽重に応じて寿命を縮め、時には命をも奪うとされる。
その災いから逃れるためには、「善をなし悪をやめ、庚申の夜には、香華や百味の飲食を供え、
真言を唱えて仏を念じて眠らない。さらに、六度の庚申の夜を無事に勤めれば、願いが成就す
る。」と。
庚申(かのえさる)の夜、無病息災を願いながら眠らないで過ごすという平安時代の
貴族社会の風習が、鎌倉時代の武家社会を経て、少しずつ民衆の間に浸透し始めた。
さらに江戸時代には、その風習は全国規模で広まり各地に庚申を祀る集団「庚申講」
が結成され、やがて民間信仰の中心的な存在のひとつとなった。
<だったら>
人間は多かれ少なかれ、よくないことをするものだから、だれでも3尸の報告によって
寿命を短縮されているわけだ。だったら悪いことをしなければいいのだ。そしたら3尸も天帝に報告
する材料がない。なるほど。そこで人間は考えた。悪事をしない人間はなかろうし、そういう人間は
面白みがない。悪事をしても天帝に告げ口するものさえいなければ刑罰を受けずに済む。
だったら3尸を天に昇らせない様にしたらいいのだ。だったら庚申の晩は眠らなければいいのだ。
●湧水町内には三叉路・路傍数に多く庚申塔が残っています。
●庚申信仰の消滅した今、多くの人は何の石塔かまったく知りません。
●庚申塔は講の組織が成立した時、また講を何年か続けてその目的を遂げた時に建てられたものです。
●庚申塔には自然石に庚申塔と刻されたもの、凡字で表現されたもの、5輪塔の庚申、猿田彦大伸
青面金剛像などがあり、特殊なものとして田の神や地蔵などをもって庚申としたものもあって、
庚申信仰が他の信仰と習合したことを示しています。
●吉松地区内の庚申塔は15基あり「吉松郷土誌」・郷土誌つつはの「創刊号と2号」に掲載。
下記に江戸時代の制作日が判明している主な庚申塔一部を掲載しました。
●表面は 明治4年 猿田彦大神 ・ 裏は梵字が刻まれているのがあります。
これは明治初期の廃仏毀釈の難を逃れるため、神名を借り庚申に替えたもの
全国にあまり例のない、吉松地域独特の庚申塔です。
<江戸時代の制作日が判明している吉松地区の主な庚申塔>
1 | 享保13年 | 1728 | 旧役場前の国道脇 | 文字碑 | 猿田彦大神 | |
2 | 享保14年 | 1729 | 川西四ツ枝黒木宅 | 梵字碑 | 猿田彦大神 | 県指定 |
3 | 享保21年 | 1735 | 川西永山平谷方 | 梵字碑 | ||
4 | 享保21年 | 1735 | 川西市原道路脇 | 梵字碑 | 猿田彦大神 | 町指定 |
5 | 元文 5年 | 1740 | 鶴丸原口後城山 | 文字碑 | 猿田彦大神 | |
6 | 寛保年間 | 1741〜1744 | 川西中野鶴副宅前 | 梵字碑 | 猿田彦大神 | |
7 | 〃 | 〃 | 般若寺日枝神社 | 梵字碑 | 猿田彦大神 | |
8 | 宝暦 6年 | 1756 | 旧役場前の国道脇 | 青面金剛 | 町指定 |
2番の吉松川西四ツ枝、黒木正彦宅の庚申塔(県指定文化財)
裏面にある種字を調べてみました。(吉松郷土誌抜粋)
縦に8字ありますが、@のドバウ<英語のBに似ている>を見つけられませんでした。
梵字にお詳しい方がおられましたらご一報ください。
疑問=明治4年、表面の「猿田彦大神」はどんな関係者が彫ったのだろう?
@ドバウ ? Dキリーク 阿弥陀如来
Aバン 大日如来 Eアーク 普賢菩薩
Bウーン 愛染明王 Fサ 観世音菩薩
Cタラーク 虚空蔵(こくぞう)菩薩 Gサク 勢至菩薩
8番の吉松中津川の旧役場前の庚申塔 町指定文化財
3番の川西市原庚申塔(町指定文化財)
田の神と庚申塔と猿田彦との関係
仏教にいう庚申信仰は青面(しょうめん)金剛(こんごう)である。これに対して神道の側から
「庚申の夜に祀るべき祭神は猿田彦大神である」と説いたのは、江戸前期の儒者・神道家である
山崎闇(あん)斎(さい)(1618〜82)で、その流れを汲む神道家によって広まったという。
<画像 hpより 参考図書「庚申と猿田彦」より>
サルタヒコとは記紀神話(古事記・日本書紀)で天孫ニニギ尊の降臨に際して道案内者として
現れた国つ神で、簡単にいえば“赤い顔をした鼻高の天狗”である。<画像 hpより>
そのサルタヒコを庚申尊とするわけは、
@江戸時代、猿田彦の“猿”が庚申の“申”に通じ庚申講と結び付けられた
Aサルタヒコが降臨するニニギの道の露払いをしたことから、禍(災い)を払う力があると
考えられたため、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。
B別名・大田神と呼ばれるサルタヒコが田の神・豊饒の神とみなされ、豊作豊饒の願いを
叶えてくれる神と考えられたため
<総論> 山の神が春になると里に下りてきて田の神となって豊饒を見守り、豊かな収穫を見届けて
山に帰っていくという、わが国古来からの山の神・田の神の交代信仰がうかがわれ、庚申尊が豊饒を
司(つかさど)ると見られていたのではなかろうか。