平成26年(2014年)
主催:四地区義弘公大河ドラマ誘致委員会
後援:三州同盟会議(日置市・湧水町・えびの市・姶良市)
しかし!! 残念 !!
平成30年(2018年)
「西郷どん」に決定しました。
しかし!! 諦めるのはまだ早い
下記の YOUTUBE をご覧ください
秀吉家康にも恐れられた義弘公 慈悲深き義弘公 部下から尊敬された義弘公
愛妻家の義弘公 などなどご覧いただけます。
時間が掛かろうとも誘致運動を進めていきましょう。
動画必見 義弘公の事はこれで(うんだもしたん) 2016/12
義弘公を大河ドラマに推薦する唯一のテレビ放送!!
平成26年 2014/11/16
平成26年 2014/11/24
平成27年 2015/7/17
平成27年 2015/9/4
平成27年 2015/12/24
平成28年 2016/12/23 磨欲踊り復活の様子はここで
たまがった!! 隆太郎先生は義弘公がドラマ化した場合を想定して
前50話のタイトルを考えておられました。拍手
以下は義弘公についての編集です。
予備知識としてご覧頂けたら感謝です。
島津義弘公の生涯
年表 | 系図 | 信仰 | 松竹梅 | 茶人としての義弘公 |
真幸院 | 北原氏 | 今に残る伝統文化 |
1535 天文 4年 伊作(日置市)の伊作城(亀丸)城で生まれる
祖父は 忠良(日新公)です。 ”いろは歌” をつくり大名の訓としました。
父は 15代貴久 義弘は貴久の次男 幼少の頃は又四郎 →忠平
晩年は 松齢公 惟新翁 兵庫の頭(かみ)と呼ばれました。
1554 天文23年 初陣 岩剣城の戦い 19歳
鹿児島で鉄砲が初めて使われました。
65歳の時の関が原の戦いまで大小52回の戦いを経験しました。
1560 永禄 3年 飫肥城主 島津忠親の養子になる。
1562 永禄5年 薩摩本家が肝付氏の攻撃にあったので帰還したため
飫肥城は陥落しました。
1564 永禄 7年 飯野城 真幸院の領主となる 29歳
この頃飯野城普請のため1年間ぐらい鶴丸の鶴亀城に居城していました。
義弘夫人は加久藤城に住み、長男・鶴寿丸(幼少で死亡=墓は飯野城前)
次男・又一郎 三男・米菊丸(18代家久)四男・万千代丸
五男・久四郎(14歳で栗野松尾城で死亡、墓は城山墓地=松尾城の下にあります)
1567 永禄 9年 菱刈氏と戦い、馬越城(伊佐市)を攻略
1572 元亀 3年 木崎原の合戦 38歳 島津義弘と伊藤氏の戦い
この戦いは九州の桶狭間とも称され、伊東方は、伊東一門の大将五人をはじめ
奉行や各外城の地頭ら二百五十人を失い、その影響は深刻で、伊東氏衰退の
引鉄となった合戦でした。
1578 天正 6年 耳川(日向市)の戦いにおいて大友群を破る
1585 天正13年 17代太守となる
1587 天正15年 兄義久が豊臣秀吉に降伏
1590 天正18年 栗野松尾城に移る 55歳
29歳から27年間、波乱の生涯を飯野城で過ごしたことなります。
1592 文禄元年 2/28 「文禄の役」に栗野から出陣しました。
2/7 正若宮栗野八満宮(勝栗神社)で御首途の出陣式を執り行い
磨欲踊を興行し、即興に和歌を詠じ、諸侯の鋭気を上げた。
1593 文禄 2年 朝鮮の巨済島で久保が病死
1595 文禄 4年 朝鮮から凱旋、陶工を栗野に移住してもらい城山に登り窯を築く。
薩摩焼きの発祥(文禄説)
栗野より帖佐に移城
1597 慶長 2年 再び朝鮮に帖佐から出兵す
1598 慶長 3年 朝鮮から凱旋時、陶工を移住してもらう。薩摩焼きの発祥(慶長説)
1600 慶長 5年 関が原の戦いで西軍に組し中央突破(65歳)帰国後櫻島に蟄居
1602 慶長 7年 徳川家康より薩摩・大隅・日向の領地が安堵される。
1604 慶長 9年 妙円寺(日置市)を菩提寺とす。
1606 慶長11年 帖佐から平松(姶良市)に居を移す。
1607 慶長12年 平松から加治木に移る。
1619 元和 5年 加治木で没する 85歳
島津氏略系図
島津家に伝わる史料では、初代忠久は母が源頼朝の側室で比企能員の妹丹後局(たんごのつぼね)で
頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたとされる。但し、この言い伝えはいわゆる「偽源氏説」の
一種とされ、現在、学会でこれを史実としている人はほぼいない。
忠久は同じ惟宗氏でも「惟宗忠康の子」とする説が有力。
母は比企尼長女の丹後内侍であるのが正しいとされている。
義弘は信仰心がとても厚い人でした。
江戸時代後期に島津藩が編さんした「三国名勝図会」に島津義弘のあしあとがあります。
箱崎八幡宮 | 鶴岡八幡社 | 亀岡天神社 | 般若寺 | 内小野寺 |
正若宮八幡社 | 徳元寺 | 松尾城 | ||
吉松近辺は日本一めでたいところ
縁起のいい地名がなぜか県境に集中
良縁を大事にする義弘公の人柄か
松竹梅 亀鶴
吉松=吉(キチ)と松 松ケ田=亀鶴城の周囲の字 岡松=般若寺の先(えびの市) 松尾城=栗野
竹田=竹田支区 梅木=岡松の先(えびの市)
鶴丸 亀鶴城(キカクジョウ) 亀沢(えびの市)
えびの市のエビ=絶えず脱皮をするので永遠の若さ&腰の曲がるまで
真幸(えびの市)
松竹梅はなぜ縁起が良くめでたいのか?
松竹梅の発想法は日本独自ではなく、中国から渡ってきた考え方。
松竹梅と一概に言いますが、「松竹」と「梅」に分かれます。
松が最初だから偉いかというと、必ずしもそういうことではない。
松と竹は冬の間の寒いときの風雪や厳寒に耐えて、ずっと緑色を保つ。
梅はほかの花に先駆けて非常に早く咲くので
清らかさ、高潔、節操、清純という意味。
要約すると、冬の寒さに耐えて緑を保つ松と竹、
寒い中でもいっせいに咲く清らかな花が梅。よって「松竹 梅」。
奈良時代あたりから積極的に使われて、松竹梅はおめでたいということに。
門松の松竹梅は?
お米、その他の取り入れでも植えた種がしっかりと育ち、できるだけ早く取り入れてほしいということで、農耕民族の間に流行。五穀豊穣を祈る最初のお正月に飾った。
土地だけでなく人名にも数多く見られます。
義弘公の子の名前
千鶴 鶴寿丸 久保(永く保つ) 忠恒(常に正しく) 万千代丸(幾代も続く) 忠清(清く正しく)
茶人だった島津義弘
武将として知られる義弘ですが、千利休と交友もあり茶人としての顔もありました。
●茶道(さどう)=室町時代に大成した芸道
●茶道は武将たちに欠かせない教養となっていた。
権力者たちは重要な事柄が話し合わう時に茶会を利用していた。
16世紀に武野紹鴎(たけの・じょうおう)・千利休らによって「侘び茶」として大成され
織田信長・豊臣秀吉の時代に全盛期を迎えた。
●島津義久・義弘をはじめ様々な人物も茶の湯を楽しんでいた。
上井兼覚日記(うわい かくけん)=16代義久の家来が書いた日記に書かれている。
(エピソード)
祖父忠良を尊敬してやまなかった孫の島津義弘は何故かどっぷりと茶道にはまってしまい、
関ヶ原の敗戦後、豊臣秀吉の人質となっていた妻・宰相殿が自分の道具は何も持たず、
秀吉から拝領した茶入(銘「平野肩衡(かたつき)」)だけを持って大坂から逃亡してきたのを
「さすが武士の妻たるもの良き心がけ」と激賞されている。
●(うんだもしたん)先代の島津氏は茶道に不熱心だった
「中興の祖」として有名な島津忠良(祖父)が
「魔のしょゐ(所為)か 天けん(天眼)おかみ(拝み) 法華教 一向宗に すき(数寄)の小座敷」
天けん=キリスト教、法華宗、一向宗、「数寄の小座敷」(風流な座敷=茶道)に熱中するのは、
魔が差した者のすることである。と和歌に詠んでいる。
●茶器をこよなく嗜好していた義弘は領内に陶器窯を築く事を強く望んでいました。
朝鮮出兵 1592年〜1598年(文禄・慶長の役)を俗に「やきもの戦争」とも言われております。
義弘は多くの朝鮮人陶工を連れ帰った。
陶工は士族としての保護を受けながら薩摩焼きの元を形成していった。
●(うんだもしたん)松尾城横の城山は薩摩焼きの発祥地
文禄の役から凱旋したとき朝鮮から陶工を移住してもらい、城山に登り窯を築いた。
跡地付近で数十点の陶磁器片が発見され保管されています。
薩摩焼伝来説には 「文禄説」と「慶長説」の2つがあります。
文禄説=賢野関係文書
惟新様(義弘)御渡海あそばされ、御帰国のみぎり・・・・・・・栗野において
被召出焼物細工御覧(めしだされやきもの・さいくごらん)あそばされ・・・・
この記録が文禄の栗野開窯説
慶長説=享保16年(1731)に書かれた 「先年朝鮮 より召渡留帳」
慶長三年(1598)戊戌冬被召渡候(つちのえいぬ しょうとされそうろう)朝鮮人串木野の内嶋平・
市来の内神之川・鹿児島の内前の浜三所にに着船仕候。・・・・・・・・
この資料が信憑性の高さを尊重しているので定説とされている。
時代の背景 真幸院 1573年 三州割拠図より
真幸院(まさきいん)は、宮崎県(旧日向国)南部山沿い地域の旧名。現在のえびの市、小林市、高原町の総称。
かつて日向国は 5郡8院と呼ばれ、「宮崎郡」、「臼杵郡」、「児湯郡」、「諸県郡」、「那珂郡」の5郡と、「真幸院」、
「三俣院」、「穆佐院」、「新納院」、「飫肥院」、「土持院」、「櫛間院」、「救仁院」の8院で構成されていた。
真幸院は今のえびの市に当たる地域、「加久藤」、「飯野」、「吉田」、「馬関田(まんがた)」と「吉松」を含めた
地域の総称であったが、その後に「小林(旧名:三山)」もそれに加えるようになる。
後世において大隅国の「吉松」を除いた西諸県郡を総称して「真幸表(まさきおもて)」と呼ぶようになり、
これのため「高原」、「野尻(旧野尻町)」も真幸院の中に加えて呼ぶようになったと思われる
(文献に依って「小林」、「高原」は三俣院に、「野尻」は穆佐院に組み入れられている)。
古くから豊かな穀倉地帯であったため、「島津氏」、「伊東氏」、「相良氏」、「菱刈氏」、
「北原氏」による奪い合いが絶えなかった。
南北朝期までは日下部氏により統治されてきた地域であるが、それ以降の200年近くは北原氏が、
北原氏が伊東氏に領地を簒奪され、その伊東氏が島津氏により日向より追い出されると、
廃藩置県に至るまで島津氏が領有する。
名称の由来 [編集]その区域内の租稲(献上米)を収める垣の中に囲まれた倉庫を当時「院」と呼び、
それが建てられた場所が現在の「えびの市真幸」であった。ゆえに当初は真幸院とは、
単に「真幸にある倉庫」を意味していたが、後にその倉庫に租稲を収納する区域全体を総称した地域名へと変化していった。
「真幸」は元々は「真狭」と記されていた。 それは、南の霧島山脈と北の球磨山脈に挟まれ、
平地が長細く狭いために「真狭き(ませまき)形」をしているため。
将軍家が院司を置くようになった元暦頃から「真幸院」と呼ぶようになったとされる。
参考文献
「えびの市史 上巻」:えびの市郷土史編さん委員会
「小林市史 第一巻」:小林市史編纂委員会
時代の背景 北原氏
北原(きたはら)氏は日向国の氏族で、大隅国肝付氏の庶流。
元々は伴氏を称していたが、兼俊の頃に肝付氏を名乗り、またその子である兼綱が分家して大隅郡・
串良院を治め、築城した場所の地域名である木田原から北原氏を名乗るようになったとされる。
勢力範囲は、真幸院(現・えびの市)5ヶ郷(加久藤、飯野、吉田、吉松、馬関田)及び三ツ山に加え、
東方面は高原、高崎、野尻、山田、志和池、西岳(以上 現・宮崎県)付近まで、西方面は、財部、吉松、
栗野、横川、踊、日当山(以上 現・鹿児島県)あたりまでを領有していた。
兼幸が真幸院飯野城主になったのが 1345年
兼親に代わり島津義弘が飯野城主になったのが 1564年
約200年、真幸院を中心に統治していたが
真幸院近辺は穀倉地帯であったため「島津氏」、「伊東氏」、「相良氏」、「菱刈氏」
との奪い合いが絶えなかった。
詳しくは 北原氏 を参照。
義弘にまつわる伝統文化(姶良・伊佐地区広域観光マップより)